姫路文学館で開催されている司馬遼太郎生誕百年企画展「小林修写真展 司馬遼太郎『街道をゆく』の視点 -歩いた風土、見抜いた時代-」を鑑賞した。
※会期は2023.10/7〜11/26
小林修さんは、「週刊朝日」で連載されていた「司馬遼太郎シリーズ」の写真を17年にわたり担当し、作家司馬遼太郎さんの作品世界を表現しつづけているカメラマン。
2003年、2017年、2018年、2019年、日本雑誌写真記者会賞最優秀賞を受賞。現在は朝日新聞出版写真映像部長でもある。
司馬さんが伝えようとした言葉とシンクロする、普遍性を持った風景に出会う瞬間があるのだ。
訪れてみたいと思ったのは小林修さんのこの言葉に惹かれたから。自分も景色から言葉を、言葉から写真を拡張したいと願う人間だ。
ひとつひとつの作品をじっくり鑑賞して、司馬さんのどの言葉、どの世界観に小林さんはイメージを添えたのか、肌で感じてみたかった。
だが思わぬ幸運が訪れることになる。
なんと、会場に在廊していた小林修さんに「私がこの写真を撮っている者ですが、何かありましたらご質問にお答えしますよ」と声をかけていただいたのだ。
きゃー、きゃー、きゃー。
ご本人だとは思わず、そのご本人の前で「おおお、こんな撮り方がっ」「なんとこんな写真も」「うわぁ、素敵」などと声をあげていたからだろうか。うるさくてごめんなさい。ああでもリアクション人間で良かった。
小林修さんに質問、そして記念撮影をしていただいた!
小林修さんに、あれこれと質問をする。
「この写真のおばあさんは仕込みですか?」
「司馬遼太郎さんの言葉を全部覚えてるんですか?」
「撮影にはどんな機材で、どれくらいの時間を?」
舞い上がっているので失礼な質問もしたような気がする。やさしく、そしてとても親切に回答してくださる小林さん。なんというジェントルマンなのか。
教えていただいた中で一番印象的だったのが、司馬遼太郎さんの著作をKindleのマーカー機能で保存しておくというものだった。紙の本の時代は付箋だらけだったらしい。
「一緒に写ってもらえませんか?」
「ブログに載せちゃってもいいですか?」
「あ、背景が小林さんの写真だと著作権的にまずいですか?」
苦笑いですべて「いいですよ」と答えてくださった! そしてこの写真である。わーーーー。嬉しすぎる。
ついでなので、小林さんが撮影された写真パネルの前で撮った一枚も上げておく。
イケてる(ない)。
小林修さんの写真集にサインまでしていただいたっ!
小林修さんの写真集を二冊購入。
司馬遼太郎「坂の上の雲」の視点
司馬遼太郎「街道をゆく」の視点
快くサインにも応じていただいた。
二冊を差し出して、どちらにもサインを書いていただいた。あとから、こういう場合は一冊だけお願いするもののような気もした。お手を煩わせましてどうも(優しかった)。
写真に向かう姿勢。「街道をゆく」の視点の後書きに心が惹かれた。
司馬遼太郎「街道をゆく」の視点 の後書きに心が惹かれた。
こどものころ、歴史の授業が苦手でいつも居眠りばかりしていた。
司馬遼太郎「街道をゆく」の視点
そんな私が司馬さんの作品世界をあきもせず撮影しているのは、そこに歴史物語だけではない、わたしたちの「いま」を形作るもの、あるいは文明や文化に根ざした人間の営みそのものが描かれているからなのだと思う
だがその世界を写真にする行為は簡単ではない。司馬さんが伝えようとしたものは、史跡や石碑を写しても伝わるはずもなく、また、実際に司馬さんが歩き描いた風景はとうに消え去り、無機質な住宅街や工場に変貌していたりするのだ。
そんなとき思い出す司馬さんの言葉がある。
「たとえ廃墟になっていて一塊の土くれしかなくても、その場所にしかない天があり、風のにおいがあるかぎり、かつて構築されたすばらしい文化を見ることができるし、その文化にくるまって(略)動きつづける景色を見ることができる」
「街道をゆく」の旅に出る理由を司馬さんはこう書く。その場所に脈々と続く人間の営みがあるかぎり、なんらかの痕跡が風景にしみこんでいる、ということなのであろう。
写したいという欲求を傍らに置き、その場所にしばしたたずむ。吹いてくる風や差し込む光に身をゆだねる。それから少しだけ司馬さんの言葉に思いをはせる。すると、何気ない日常のなかに歴史を超えた風景が立ち上がってくることがある。司馬さんが伝えようとした言葉とシンクロする、普遍性を持った風景に出会う瞬間があるのだ。
たとえ廃墟になっていても、その場所にしかない天があり、風のにおいがある。司馬遼太郎さんのその言葉を思い出しては、小林さんは同じ場所にたたずんで、吹いてくる風や差し込む光に身を委ねる。
すると何気ない日常の中に歴史を超えた風景が立ち上がってくるという。この感覚はまさに川柳や短歌を詠むときと同じで、強く心が惹かれる一文だった。
情景に言葉がシンクロする、言葉が情景を浮き上がらせる。命ある限り、僕は写真と言葉を組み合わせた世界の表現に挑み続ける。だからこそ、今日の作品たちとの出合い、そして小林修さんとの出会いは人生に大きな影響を与え続けてくれると確信する。
「いま」が歴史があって立つものなら、過去を継承した今もまた、やがて歴史となって「未来のいま」をつくる。
自分の表現の”ほんの一点”は一瞬に過ぎずとも、風となって光となって、いつか誰かの原子にたどり着くのだ。そんな意識を持って、僕はこの時代を通り過ぎていきたい。
小林修さんの人柄にも惹かれる時間だった。またいつかどこかで、お会いしてお話できる機会があれば嬉しい。