自分の器を見ている。
昔、自分の心をズダズダにされるようなことがあって、挙げ句の果てに、お金まで払わされるという不条理な出来事があった。
その人の名前を思い出すだけでも胃が痛くなる。
ところが、その人がSNSでアップしている画像を見てしまったのだ。どうやら、ある印刷物を作るようで、その校正が最終段階まで進んでいるらしい。そこまではいいのだ。問題はその画像の中にある。致命的な誤植があるのだ。痛い、あまりに痛い。
このまま印刷に進み、納品された後にこのミスが判明したら、その人はきっと印刷会社の責任にするだろう。印刷会社さんのことを思うと胸が苦しくなる。
印刷会社さんのことを抜きにしても、誤植を見つけてしまった自分が、何も伝えないというのもどうにも収まりが悪い。人としてどうなのだろうという気持ちになってしまう。モヤモヤする。
人づてに伝えようかと思った。
が、共通の友人たちも、今はその人とは適切な距離を置いているようで、どうにもこうにも連絡を取るのが難しい。かといって直接連絡する気にはなれない。「ざまあ」と思って傍観するのも苦しい。
どうしたものか。
そして冒頭の心境に至る。
自分の器を見ている。
試されるようなことばかり、人生とは。