たとえば僕が、テレビに出ているようなカウンセラーの秘書を務めていたとします。
ここで僕が「うちの先生はすごいんです、いろんな有名人の方も相談に来られるくらいに」と皆さんに宣伝をしたとします。これはまあ良いでしょう。ところが「だから、その有名人たちの裏話も披露しちゃいますよー」と書いたとしたらどうでしょうか。
これはそう、どう考えたってアウトです。だってそうでしょう、有名人だって一私人には違いないのです。わざわざ自分のことを相談に来て、プライベートな内容を打ち明けて、その内容を暴露されてしまっているのだとすれば、たまったものではありません。守秘義務があるとかないとか以前に、信用の問題です。僕たちひとりひとりには、プライバシーがあります。有名人であったとしても、それを公にして良いということにはなりません。
自分が良いと思ったものを誰かに伝えたいと願うのは、人として当然のことです。ただ、伝え方には配慮が必要です。想像力が大切です。伝承者の想像力の欠如によって、その客体の評価が下がってしまうのだとすれば、それは本末転倒もいいところです。読んだ人が、言葉のひとつひとつをどんな風に受け取るのかを想像し続けること。気軽に発信できるようになった現代だからこそ、言葉には想像を織り込んでいきたいものです。
言葉は、ひとに、想像を促すもの
そういえば。
以前、酔った勢いでメールの返信をしてこられた方がいました。翌日「あれは友人が勝手にメールを覗いて返信したもので、自分が送ったものではない」と謝罪をしてきましたが、百歩譲ってそれが真実だとしても、個人情報の入ったケータイ電話を不用意にひとに触らせていることには違いありません。その方は、個人情報を厳重に管理すべきお仕事をされています。
言い訳だったのか事実だったのか、どちらであるにせよ、伝達された内容によって僕は、そんな想像をして、その人の評価を下したわけです。
言葉は、ひとに、想像を促すもの。
だから、その想像を想像して、言葉は選ばなければならない。
僕は、そんな風に思います。
もちろん。
あえて、こんなことを書いているわけですから、僕は僕で、それなりの想像と覚悟はしています。
言葉に責任を持つというのは、その真意の通りに堂々と生きていくことなのかもしれません。