色々な道具があって、その道具をどんな用途で使うかは人それぞれです。
たとえばピアノ。僕はピアノで何かの曲を演奏することよりも、ピアノで作曲をすることが大好きです。演奏という表現ではなく、作曲という表現をするための相棒としてのピアノ。「うまく演奏しなければ」と思っているときは道具に使われていますが、「何かを創り出したい」と思って向き合っているときのピアノは、僕に、誰にも邪魔されなたくはない研ぎ澄まされた時間を与えてくれます。
何かのついでに記録のためにするのではなく、撮ることを目的に外へ向かうと世界中が景色になる。明石海峡大橋、雪は消えたか、空は見えたか、僕はやすたか。 pic.twitter.com/aeKfc0znPL
— 西端康孝 / 川柳家・歌人・コトバノ (@bata) 2018年2月12日
カメラも楽しいですね。記録するためではなく、世界をちぎり取るためにカメラを持ち出して街を歩くと、景色が向こうから迫ってきてくれる感覚があります。どの構図で、どの景色を狙うのかも人それぞれなのだと思いますが、僕はタイトルや物語といった「ことば」が同時に浮かんだときだけシャッターを切っています。言葉と写真が同時に浮かぶこのときだけは別人格。たぶん、普段は抑制している己自身に出会っているのだと思います。
知るとは、知らないことが増えていくということ。
景色と言葉に出会うたび、そのことを強く思います。時間をつくって、たくさんの景色に出会っていきたい。この世界を表現する言葉を創り出していきたいと、そんなことばかり考えてしまう今日この頃です。