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世界一のクリスマスツリーに伝えたかったこと、「鎮魂」や「復興」という文字を記号にはしたくなかったということ

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2017年の冬に神戸にやってきた「世界一のクリスマスツリー」は物議を醸しました。

色々な考えがあって良いと思うのです。「議論を呼ぶことで木(nature)との関わりについて考えるきっかけにしてほしい」と言った主催者の発言が当初からのものであれば、意図した通りの展開になったわけですから。そう、これだけの高さに木が成長するには、100年や200年、300年という時間が必要で、また、そういった木を売ることで生計を立てている人がいるんだな、と、知ることができました。昨日までと同じ景色を眺めていては、未知に触れることはできません。

ただ、どうしても今回の「世界一のクリスマスツリー」に関しては、理由や物語に後付けのものが多く、僕は素直に、このプロジェクトに賛同することはできませんでした。僕も神戸で商売をしています。その仲間たちの多くがこのプロジェクトにかかわっているのも知っていて、それでも、世界一のクリスマスツリーを批判する立場を取りたかった理由は、言葉を生業とするものとして、「鎮魂」「復興」という文字がただの記号になることを危惧したからでした。

言葉の可能性を信じて、僕はそれをコピーライターとして生業にしている。
一方で、言葉は上手に扱わなければ、安っぽいメッキになってしまうことも今回のことで十分理解することができた。

引用元:言葉が覆っているものが何であるのか、人は覗こうとする #世界一のクリスマスツリー | 川柳をこよなく愛する明石のタコ

世界一のクリスマスツリーには、著名なコピーライターもPRに関わっていました。だからこそ、様々な想いの交錯しあう神戸の空を、上手に整理して伝えてほしいなと願ったのですが、論争が激しくなると、想いを代弁する役割を忘れられ、疑問を投げかける人たちを一蹴されるようになってしまいました。色々な批判もあって、感情的になってしまうこともあったのでしょう。しかし、僕たちは冷笑をしたのでも、僕たちの低さに彼らを引きずりおろそうとしたわけではありませんでした。議論のきっかけとなれば、という意図が消えて、議論にも値しないと言われてしまったわけです。

その啓発のための活動は、想いありきであってほしいなと思っている。あと付けされたそれっぽい理由には、どうしても下心のようなものを感じてしまって、素直に共感することはできないんだ。僕が特別、ひねくれた人間だからなのかもしれないけれど。

引用元:行動の軸に、想いと信念を置くということ。人は見ているね、感じているね。 #世界一のクリスマスツリー | 川柳をこよなく愛する明石のタコ

理由は、後付けであってはいけないのだなと今回のことで学びました。まず、想い、まず、理由。その物語に、いろいろなヒト、コト、モノが動くから、共感が生まれる。想いは浸透するものであって、押し付けるものであってはなりません。想いは真ん中に、想いは最初に存在しなければならないのです。人気者になれるから、こんなことをしよう。お金が儲かりそうだから、これをしてみようという下心は見透かされます。結果的に人気者になっても良いのです、お金が儲かっても良いのです。ただ、あくまでもそれは、結果であって、目的であってはならないということ。特に、今回のように「神戸 震災 鎮魂」というキーワードを絡めるような場であれば、普段以上にそれは意識されるべきことでした。

僕たちは木によって生かされているし、木を切ることを批判するつもりはない。ただ、木を切る理由について嘘を重ねて、それっぽい雰囲気を醸し出そうとしていることについては、どうしても「木の無念」を感じずにはいられないのだ。

引用元:そんな僕の命は、失われた魂を「鎮める」ことになるんだろうか #世界一のクリスマスツリー | 川柳をこよなく愛する明石のタコ

後付けの理由、嘘、下心。僕たちはそういった事柄に対して問いかけを試みました。問いかけの手段として「木の無念」という表現を用いました。しかし、これは結果的に「木が可哀想であるというが、生活には木材が必要なのだよ。今回の場合だけ感傷論になるのはおかしい」という歪んだ議論を招く結果となってしまいました。多くのメディアもそのような論調でこの件を報じていたように思います。

唯一、神戸新聞の上杉順子記者だけは、事実を丁寧に伝えつつ、私たちの問いかけを代弁するような見出し・構成を考えてくれていた気がします。報道は事実を伝えるもの。しかし、その行間には「当事者双方の温度」をも含めていく必要があるのだという、上杉順子記者の言葉の選択に敬意を表したいと思います。

神戸の海にやってきたクリスマスツリーは、その物語が二転三転して、亡くなった魂たちを鎮めるはずが、栄誉を求める人のためだけに潮風に晒され続けました。木が可哀想なのではなく、僕たちは、この地の魂たちを利用されたように感じたことが悲しいのだと思います。あまりにも嘘の多い、冬の思い出でした。

引用元:[短歌]手と手と手 神戸は強くなりました海に浮かんだ嘘が悲しい | 短歌と川柳とマカロニと

長々と書きましたが。

2018年1月17日です。震災を経験した神戸の人たちは、たとえば東北、九州、山陰や北陸などで大きな地震があるたび、心を痛め、何かできることはないかと動きました。痛みを知ったものだからできることがある、生活に苦難を強いられた者だからこそ伝えられる知見があると、行動をすることで、傷ついた人たちの心に触れていこうとしました。それでも、そんな行動が、心を癒すには全然足りないことも知っているのがまた、神戸の人たちです。

だから、思うのです。「鎮魂」や「復興」は、そんなに簡単にできることじゃない。「鎮魂」や「復興」という言葉を記号にしてはならない。辛抱強く、焦らず、だけど優しく、ずっとずっと、見守り、励まし、行動をしていかなければならない。それでも足りないのだということを知らなければならない。傷の深さと痛みは人それぞれ。安っぽいショーにしてはいけないのです。嘘で飾ってはいけないのです。

傷を知っている赤くて優しいポートタワーが、神戸にはもう、十分にクリスマスツリーで、嘘とお金の匂いのする木は必要ないのではないかと思いました。祈る空、鎮める海のことは、どうか、静粛なものであってほしいと願います。

引用元:[短歌]神戸にはもう特別な木があって祈りの街の空は静かに | 短歌と川柳とマカロニと

神戸には、神戸を象徴するポートタワーがあります。

嘘とお金の匂いのする木は、神戸には似合わないな、と思いました。祈りとは、厳かに静かに行われるべきもの。これからはもう、失われた命と、その後を生き続けた命たちを冒涜することのないよう、今回の件をも「震災後の教訓」として後世に伝え続けていきたいと思います。

祈ること、守ること、行動すること。
神戸の街の特別な一日に、改めて、誓います。

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