クリスマスというイベントに、鎮魂と復興という言葉が重なる。そこに透けて見えるのが、お金なのか、祈りなのか。お金の成る木に祈りをぶら下げても、やっぱり人は下心を感じてしまう。真ん中には、想いや信念がなくては。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人・コトバノ (@bata) 2017年11月29日
僕たちはいろんな生き物の命を頂戴して生きている。
動物に限らず、植物からだってそう。有り難いことだと思ってる。申し訳ないことだとも思ってる。仕方のないことだとも思ってる。命のうえに、僕たちの日常は存在している。
そんな存在に対して感謝と畏敬の念を抱くことは大事なんだろう。それを啓発するための活動も大切なことだ。誰かがその旗を振ってくれなければ、流れてゆく日常に、僕たちはすぐ、その命の存在を意識しなくなってしまう。
ただね、でもね。
その啓発のための活動は、想いありきであってほしいなと思っている。あと付けされたそれっぽい理由には、どうしても下心のようなものを感じてしまって、素直に共感することはできないんだ。僕が特別、ひねくれた人間だからなのかもしれないけれど。
大切なことは、行動の軸に、想いと信念を置くということなんだな。
装飾のための想いではなく、真ん中に想いを置くということ。
ひとは見ているね、感じちゃうね。