「マカロニサラダを食べながらマカロニグラタンが焼きあがるのを待っていたい」と書いたメモが出てきました。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2017年10月9日
芋に恨みはないけれど、マカロニグラタンだと思って口に運んだときにポテトグラタンだったときの失望は大きい。僕はそれくらい、マカロニが大好きだ。もう一つのブログ名は「短歌と川柳とマカロニと」にした。自分という個性を表現するのには、川柳、短歌、明石、そしてマカロニという言葉が連なっていれば十分だろうと思っている。
マカロニを食べるときは、あえて、小さなフォークを使う。マカロニの穴にフォークの先端を突き刺して、一本一本の触感を丁寧に楽しみながら、チーズやマヨネーズ、その他様々な具材とのコラボレーションを味わう。ただし、主役はあくまでもマカロニである。味付けはシンプルにお願いしたい。マカロニに気取りは無用である。マカロニはマカロニである時点で、僕を永遠に幸せにしてくれるパートナーだ。着飾る必要はない。
ときに、少しだけ焦げ目のついたマカロニも良い。マカロニの弾力性は失われるが、独特の風味が僕に安らぎを与えてくれる。ざらりとした舌の上の感覚。粒子のひとつひとつたちは弾け、この世のすべてを構成する原子たちをも超越して、僕の口内は宇宙になる。マカロニは僕にとってアンドロメダ星雲なのだ。ほら、空がこんなにも煌いている。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するために正と信義とマカロニを信頼すると書いてあるのは憲法の前文だったか。僕はこの国の、この星の住人として生まれて本当に良かった。僕はマカロニとともに生まれ、マカロニとともに死んでいくのだ。
いつか僕が棺に納められるときには、どうか、花のかわりにマカロニを敷き詰めてほしいとお願いしてある。参列してくださる皆さんに、マカロニを詰めていただいて、お好みの量のチーズを塗していただくのだ。僕が煙になって浄土へと向かうころ、火葬場ではチーズグラタンが焼きあがっている。これ以上の供養はない。この香りに「あいつは最後まであいつらしかったね」と、骨とグラタンを拾いながら皆に笑っていただくのだ。
ああ、世界よ。
血で血を洗う憎しみに悲しみが続き、
絶望の色に支配されようとするときには、
どうか、マカロニの穴の向こうに
確実な平和があることを伝えてはくれないか。
ああ、世界よ、マカロニよ。