前向きっていうのは「伝わる」ものであって「伝える」ものではないような気がする。度の過ぎた伝え方は「聞く耳を持っていないんだろうな」という印象を与えてしまうのではないだろうか。謙虚で聞く耳を持てる人のところには、ひとや情報が集まる。「マインドをセットする」という言葉の弊害を思った。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2017年3月23日
Facebookを眺めていると、ふと、末法思想とはこんな風だったのではないかと考えることがある。
お釈迦様が説いた教えが世で行われ、修行をする人がいる。その人たちが去ると、次は教えが行われても外観だけが修行者に似るだけで悟る人がいない時代が来てしまう。そしてその次には人も世も最悪な時代がやってきてしまうというあれだ。
知識やテクニック、精神世界、心の構え方、それっぽいカタカナだけが並ぶようになってしまい、それを経験した人よりも、それを売るだけの人が評価される時代となっていくのは、空っぽの箱だけが売買されているような危機感を覚えてしまう。だから僕は頑なに、自分のやっていることを「ビジネス」とは呼ばず「商売」と呼び、「お客さん」のことは「クライアント」とは呼ばない。大きな時代の流れに翻弄されてしまわないよう、言葉の定義で自分の立ち位置に楔を打ち込もうとしているのだが、何処かでは、今時、こんな頑固さは流行らないだろうな、とも考えたりする。
価値観、考え方。人それぞれの内心の自由。否定はしないし、関与もしない。ただなんとなく、こんな風に考えているということを、まとまらないままでも文章にすれば、共感してくれる人も現れる。生きていくには、その共感してくれる何人かがいれば十分なのではないかというのが、ここ最近の僕の考え方だ。