「身から出た錆」も悲劇に組み込んで自分語りをしてしまうと、取り巻きの一層目の人たちからは「痛い」と思われてしまい、やがて離れていってしまうのではないか。そうして今度は二層目の人たちが、一層目となり、やはり同じような運命を辿ることになる。負はアイキャッチになりやすいが、度が過ぎると痛くなる。
身から出た錆であるかどうかを謙虚に、客観的に認められるようになるかどうか。自分ではそれを判断することが難しい。だから客観的な立場ではっきりとモノを伝えてくれる存在が重要になる(もちろん、避けられない負は、伝えて良いと思ってる)。
という仮説と、
という存在に、僕はなりたいという想いと。