ホームランを打てば祝福してやりたい。ただ、ホームランは狙って打てるものでもない。ホームランを打つことを常とされれば、ひとは疲弊してしまう。だから僕は、偶然の要素の強いホームランよりも、基本的な所作や習慣を大切にできているかどうかを評価の基準にする。
たとえば、グラウンドに立てば、柔軟体操から始めるだろう。運動会でいえば、始まりのラジオ体操がそうだ。当たり前に継続できること。当たり前の習慣の上にホームランが打てるようになるということ。継続するから習慣になる。どんなことでもそうだ。なりたい何かがあれば、まずは継続を意識すること。継続が当たり前になった瞬間に、それは習慣と呼ばれるものになる。
たとえば僕は、大切な父や犬たちを亡くした朝であっても、歯磨きをした。髪の毛だって洗っただろう。覚えていないけれど、きっとしている。習慣とはそういうものなのである。
給料を上げたいとホームランを打とうとする。結果、グランドに飛び出して、柔軟の不十分なままに怪我をする。それは自己責任だ。また、「お前は昨日はホームランを打ったのに、今日は三振ばかりだ。だから給料を下げる」というのは、それはそれで経営者の横暴であるというものである。僕は大振りは求めない。
柔軟体操をちゃんとしたうえで、空振りの三振をする。その姿勢は評価する。ヒットやホームランであれば、さらに高い評価をするだろう。しかし、基本を疎かにすることは許さない。そこに信用は生まれない。継続のないところに存在するものは、不安定な不信だけだ。
継続できているかどうか。
その一点について、何度も何度も語り続ける。果たされない。それでも、繰り返す。何を継続すれば良いのか基準を明らかにして、それを評価の材料とすることも伝える。それが自分たちの家族を守りお客さんからの支持を得られるのだということも伝える。僕はそれだけを繰り返していく。