「祈りなんて何の役にも立たない」とは、巡るその先を想像することのできない、なんとも寂しい意見だなぁと思う。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2016年4月19日
行動の源泉には「想」がある。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2016年4月19日
「祈るだけ」ではなく「何かできることを考えて、カタチで示せ」という意見がある。どんな意見を持つことも人それぞれ。ただ僕は、無形であるその構えも、けっして意味がないとは考えない。祈りの数は声になって、誰かの行動に示唆を与える。背中を押されて動き出す人があれば、追い風のように触れていく祈りたちにはエネルギーが存在するということを意味する。それでいいんだと思ってる。
想えばいい、祈ればいい。できるひとが、できるタイミングで、できる範囲のことをして、つないで、巡らせていけばいい。繋がるようになっている。正論が、行動の源泉である「想」を遮断してしまう世の中はあまりに寂しい。それぞれのエネルギーを許容する。その巡り方が、僕たちの未来を優しくする。
続く地震。不安な夜のことを想う。だから僕は、何ができるだろうと考える。「想」から始まっている。それでいい。