自分を殺して、役割に徹して泣いて、それでも雰囲気に貢献出来ている何分の一かを感じられると、幸せだなぁと思える。過ごした時間に面影という思い出を添えあって生きていく、関わりは難しいけれど、関わりがなくても寂しいね。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2016, 2月 23
人見知りが激しくて、自分から人に話しかけることができない。これでは良くないと考えてとったのが「目立つ行動」だった。人前でスピーチや司会をする、演奏する、歌う。モノマネをする、漫才をする、演劇をする。目立つことはなんでもやってきた。そういうことをしている限り、いろんな人が話しかけてきてくれる。「目立つ」行為自体は、一対一で誰かと話すことと比較すれば、何十倍も楽なことだった。人見知りが激しいこと、人前で何かをやるのは苦ではないこと。極端な話、僕という人間のことは、この2つのフレーズで説明できてしまうのではないかと思っている。
求められた役を演じていると、そこに居場所ができる。その居場所でしばらくを過ごすと、ひとり、ふたり、「仮面をはずしたら?」と言ってくれる人が現れるようになる。僕はようやく楽になる。そして、自分だけでなく、皆それぞれに、何かを我慢して、何かを負担しあって、ここに至ったのだということを知るようになる。その距離感を知り合えるようになって、僕たちはこの関係を「仲間」と呼び合うようになった。「居心地」という言葉を使うこともある。
甘えるのが下手くそで強がっていた。ただ、ここにきてようやく、少しずつ、弱さを出して甘えることもできるようになってきた感じがしている。涙のための傘をタイミングよく差し出してくれる、きっとそうしてくれるという信頼があって、仮面を捨てて飛び込んでいく。ひととき、感じる、ゆるやかな幸せ。ここはとても温かい。
春、続く、気持ちに負荷のかかるイベントや仕事。「こんな風にして、僕はしんどくなりそうだ」という予感を伝えておく。甘えだってわかってる。甘えてみようと思ってみる。
信頼が待っているというのは、強いね。関わりがあるというのは、有り難いね。