経営者の仕事は「決める」ことだから、何かを決めて受け入れたのならば、それはもう経営者自身の責任である。騙そうという意図で近づいてきた人がいても、受け入れたのは自分の判断。騙す人間は許されるものではないが、騙された方にも責任がある。どんなカードを選ぶかというのもセンスだなぁと思う。
一人のお客さん(一回のご相談)につき2時間までというルールを設けるべきかどうか。分かってるんだけど、時間を切り売りしてるような感覚は自分には馴染まないんだよな。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2016, 2月 7
まだ40歳にもならない自分の青い経験を「こんな経験をしてきたから今の自分があるドヤッ」とやり過ぎて、痛く見られたくないというのもあるんだろうな。自分はこうでしたよ、と過去形で語るだけなら時間は読める。こうしませんか、と未来形で話すなら時間は読めない。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2016, 2月 7
企画や提案の仕事をするような肩書きをチラつかせておいて、手法で問題分析するだけなら、素直にコンサルタントを自称すりゃいいんだと思う。肩書きをこねくり回してお客さんを錯覚させ、大した成果も上げられず、時間の切り売りの対価だけを得る。僕はそれを商売とは呼びたくない。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2016, 2月 7
自分ならこう動ける。自分ならこうやって問題を改善して結果を出していける。そうやって、自分が再現できるストーリーだけを提案する。「どこかの企業ではこうだ」とか「こんな事例がある」とか、他所の何かを示してドヤ顔してお金を搾取するってのはどうかと。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2016, 2月 7
自分の出来ることだけを提案するってことは、自分の出来ないことは提案しないってこと。たとえば僕は人材教育に関するようなことは何も語れない。ちゃんと出来てないから。背負えるリスク、背負ってきたリスクだけが経験で、背負ってないリスクを語るのは教科書を読み上げてるだけだと思う。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2016, 2月 7
教科書を読み上げている人は、まんま、カタカナで語る。リスクを背負ってきた人は、言葉を置き換えて、相手に伝わる言葉を用いる。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2016, 2月 7
誰を相談相手に選ぶのか、ということもまたセンス。
僕は馬鹿だから、カタカナの多い人の話はこれっぽっちも理解できなくて、分かりやすく物事を教えてくれる人と話をしている方が楽しい。「教える」「相談にのる」ことを生業としている人の話を理解するために、こっそり本を読んだり検索したりするっていうのは本末転倒のような気がする。分からないことを教えてもらうのに、ますます分からなくなってしまうためのお金と時間を投資する。カタカナは危険な誘惑なんだろう。
もう一度同じことを書く。「誰に相談するのかということもセンスであり自己責任」。僕には、カタカナに一生懸命相談して、お金と時間だけを奪われて自殺に追い込まれた経営者の友人がいる。亡くなったときはそのプランナーやコンサルタントを恨んだが、選んだのはやっぱり彼自身で、自死という結果になったのもすべては彼の選択によって始まったことなのだ。以来、僕は、たとえばのチカラを使うことを強く意識するようになった。相手から「わかりやすい」と言われると、涙が出るほどに嬉しくなる。相手から「わからない」と言われると、悔しくて涙が出る。
書いている文章の意図が相手に伝わらないときに使いたい、「たとえば」の力。 | コトバノカタカナだとか、相手の肩書きだとか。
甘美な匂いのする方向へふらっと立ち寄った結果、貴重な時間とお金を無駄にしてしまうことがある。相談相手に誰を選ぶかというとき、カタカナの多い「それっぽさ」と、カタカナを排除した「わかりやすさ」のどちらを味方につけるか、友人の命日が近づいてくると、強く訴えたくなってしまう。