そういえば最近、もぐら叩きのゲームを見かけないような気がする。そんな遊戯施設に足を運ばなくなったからなのか、本当に数が減っているからなのかはわからない。
有名人だから、政治家だから、大手企業だから、叩いても良いという風潮にいつも思うのは、そのご家族はどんな顔でスーパーに買い物に行き、どんな気持ちでランドセルを背負っているのか、ということだな。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2015, 9月 1
政治家への批判は大いにやるべきだと思う。ただし、批判にはルールが必要だ。意見を批判することはあっても、人格を否定するようなことがあってはならない。子どもたちの世代に悪い何かを残してはならないと思うのならば、敬称をつけずに批判を行うような大人の姿勢だって見せるべきではない。
身体に悪い食べ物だからあのお店には行かないと名前を出して批判をする。「あのお店」に働く人たちにだって家族はいるだろうに。「あのお店」で働く親を持つ子どもたちは、次の日、学校で何と言われるのだろう。「お前のお父さんお母さんは、身体に悪いものを作ってるって聞いたぞ」
名前を呼び捨てにした意見や考え方は、論というよりも感情の塊のような印象があって、残念な気のすることが多い。批判には世界を変えるチカラがあると思う。だからこそ、それを論に昇華させるための冷静な論じ方というものを大切にしていきたい。
引用元:批判には世界を変えるチカラがあるけれど、ひとの名前を呼び捨てにするのは勿体ない | 川柳をこよなく愛する明石のタコ
テストの日の朝に友だちに会って必ず聞いたことがある。「テスト勉強、やった?」
やっていない相手を見つけると、自分よりも劣る存在がいることに安堵した。自分もひどい、けれど、あいつほどは結果が酷くなるわけがない。自分の地位を安定させるためには、下を見つける方法が一番楽だった。
叩き過ぎる風潮に、叩かれている人と、叩かれている人の家族の心境を想像する。昔そうだったように、今でも僕は、彼らを劣る存在として利用し、己の優位を確立しようとしているのではないだろうか。さすがにそんなことをするわけはない、と、決める自分の心が、実は傲慢なのではないか。そんな自問自答を繰り返しては、上や下という考え方で風潮を定義しようとしている自分のなかの悪魔を見つける。あぁ僕は、やっぱり何も変わっていなかった――。
教えられたように教えているとき、あの人もこんな風な想いで僕に接してくれていたのだな、至らぬ僕をこんなにも我慢してくれていたのだな、繰り返してしまう僕をこんなにも許してくれていたのだな、と気がつくようになる。
僕たちが許されて生きてきたのなら、同じ数だけ、許してくれた人がいるということ。
いろんな悔いもあるなかで、しばらくはざらざらとした井戸の底に触れるような毎日が続くことになるのかもしれない。ただ、絶望は希望の始まりであってほしいと願う。自死に追い込むような言葉のナイフを投げて、それが直撃したとき、自分のせいではないと逃亡することもまた、問題としては同じことだ。
正しいか間違っているかを決めるのは、僕たちの役割ではない。僕はただ、許されてきたように許すことだけを切望する。