音楽もそう、文章もそう、そして写真もそう。
伝えるということを想像して、創造する。僕の大好きな時間で、公私にわたって、いま、そればかりを考え続けている。同じ欲求のある人たちを支援するかたちで、世に存在を知らしめていく。この想いに共感してくださる方々から声をかけてもらえるように旗を振る。会社としてはその方向に向かっていきたいのだということを毎日話し続けている。彼らはどれだけそれを理解して、熱意をまた、二次展開してくれるだろうか。
そうだったのか(驚)▼コロッケ(Korokke)は、西洋のコロッケ(仏: croquette、蘭: kroket)を模倣した、日本の洋食の一つ。海外に逆輸出された日本式コロッケは日本語をそのままに'Korokke'と呼ばれている。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2015, 4月 7
コロッケとコロッケを揚げてくれるお店は、もう、文化だと思う。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2015, 4月 7
昭和の匂いのする文化だよね、と書こうとしたけれど、トンカツやカレーライスと共に【大正の】三大洋食の一つと言われているらしい。すばらしい。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2015, 4月 7
立ち食いうどんには卵とコロッケと。至福とは。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2015, 4月 7
夕暮れのコロッケ、学校帰り。晩御飯に買い込んでいく人たちの列に並んで、揚がるのを待った記憶。「ほくほく」という言葉はコロッケのためにあるのではないかと思うことがある。出来上がりもそう、出来上がりを受け取った人の顔もそう。世界中のあちこちでコロッケが買えるようになれば、ミサイルはもっと減るのかもしれない。
いつか、コロッケを揚げてくれるお店とそれを食べている人たちの表情を写したサイトや紙媒体を作ってみたいという願いがある。コロッケを食べている人の顔を気難しく写すほうが難しいのではないだろうか。「なつかしい」や「あたたかい」と感じる文化は、理屈ではなく、「ほくほく」という雰囲気で伝承していくのが相応しい。
何かを表現するときの理屈や理論、僕はそれは後付けだと思ってる。いろんな人が心で感じてきたことの統計学、それが教科書になっただけのこと。教科書が最初にあって何かを伝えられるようになるわけではないし、ひとの心を響かせることができるわけではない。テキストや学校で学んだ結果の既視感という「カタチ」。それだけで世の中に通用するのであれば、僕たち表現者は言葉やデザインの持つ繊細な行間に心を配る必要はなくなっていくことだろう。
引用元:新開地駅の立ち食いそば屋さん「高速そば」に学ぶ、教科書にないデザインと商売のこと | 川柳をこよなく愛する明石のタコ
コロッケは優しい。お金の音に敏感になるよりも、匂いを伝えていくことを生業としたいと思う僕は、また、甘いと言われて笑われてしまうのだろう。それでも、笑われることを気にせずコロッケを思い出しながら過ごしている毎日は嫌いじゃない、そんな風に、仕事のことを、生きていくことを。