商売には目に見える商品と目には見えないサービスがある。
たとえば僕は「書く」ということを生業の一つとしていて、書く行為については対価をいただかなければならない。「友だちだから」「他の人からは書くということでお金をもらっていないから」という理由で報酬を得られないというのであれば、「では、お友だちのレストランに行けば無料で食事ができるのでしょうか」と返すことで相手を論破することはできる。できるのだけれども。
自分の作品を解さない相手のことを「お前は見る目がない!」と言う人と「自分はまだまだだ」と思える人と。どの道もプロである以上様々な労力を費やしてきたのは当然で、その労力を語るうちは自分の自信がないことを露呈してしまっているのかもしれない。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2015, 2月 1
美しいなと思うのは、自分の提供するものに対して当たり前に報酬が支払われようとするスタイル。「自分はプロで、ここまで培ってきたものに対価をいただけないのは失礼だ」と主張しているうちは、やっぱりまだまだなんだろうなという気もしてしまう。自分の職業や職務、対価についての説明が勝っているうちは、結局は自分の足らずを露呈しているだけということになるのではないか。
いいなあと思うことをしてる人はみんな「好きだからやってるだけで特別なことではないですよ」と謙虚に語る。価値を特別に語らずとも、与え続けた人だけが残って商売を成していくんだということを思い知らされるな。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2015, 2月 1
経験は財産。なれど、相手にそれを主張して対価の正当性を主張するのではなく、対価があって当然という域にまで自分を持っていく。自分の存在を高めていく。陳腐な言葉でいえばそれがブランディングということなのではないだろうか。相手から認知されていないにも関わらず自分の正当性だけを論じているうちは、まだまだ未熟な気がしてならない。
経済的に自立した収入を得られなければ起業を語るなというヒステリックな風潮も一部ではあるけれど、少なくとも自分はそんな風には考えない。自分がこうだから人もこうあるべきだという考え方の押し付けは妬みそのもので、周囲や地域との調和を考える商売においてはむしろ、失敗要因になり得るのではないだろうか。
周囲と比較して、地位の安定を図ろうとする。下を見て絶対を考えているうちはプロと呼ぶには程遠く、上を見て諦めているうちは言い訳に過ぎない。つまりそう、対価を得ることが当たり前の域に達しているプロというのは、妬まず、語らず、与えて、続ける、それが習慣になっている人のことなのではないかと思うのだがどうだろう。