大きな企業で働いていて、脱サラして起業する。親御さんが商売をされていて、その背を見て自分も商売人になった。
同じ商売人でも、そこに至るまでの人生は様々だ。ただなんとなく、前者は「ビジネス」という言葉を使うことが多くて、後者は「商売」という言葉を好んで使うことが多い気がしている。商店街で育った僕の場合はやっぱり商売という言葉が馴染むし、生まれ育ちのことを「キャリア」と称する世界の人たちに僕の考え方は響かないことがほとんどだ。
義理人情という言葉が好きで役に立ちたいという気持ちが先に立つ。労力を考えれば赤字になっていることも多いし、時には「出世払いでいいですよ」なんてことも平気で言ってしまう。ビジネスの世界で生きている人たちからは「まずは自分の労働時間と稼ぎたい金額を考えてから。適切なフィーを取るべきだし、そのフィーに価値を見出せない人は相手にするべきではない」と言われることもあるけれど、中小企業を経営していて販促の相談に来る人たちは、お金がないから「売上をあげたい」という悩みがあるわけで。だからやっぱり僕は商売人の意気で「お金のことはあとでいいですよ」と言ってしまう。
こういう考え方はこれからは流行らないのだろうし、自分は良くても自分についてくるメンバーたちにはしんどくてたまらないのだろうな、と思う。ただ、正しいとか間違っているというのではなくて、これはもう、右手で箸を持ってご飯を食べるのと同じくらい、僕のなかの当たり前で、これからも一生変えることは出来ない。
僕はこれからも商売人として生きていく。商売人の立場で、色々な商売をされる方の相談にのっていく。僕がやることはビジネスではない。血の通う温度の伝わる古き良き時代の商店街のような、そんなやり方だ。カタカナを使わない世界は遠回りなのかもしれないけれど、カタカナを使わないからこそ繋がる人たちとの関係を大切にしていきたい。
商売をする父の背を見て育った。そんな父親と同じ姿勢で生きていく。それでダメになったとすれば、はじめて、僕は、父が死んでいなくなったのだということを実感するのかもしれない。