誠意や感謝を伝えるというのは大切なことだと思うけれど、皆が同じようなことをしていると、いかにも型にはめようとされている感じがしてしまう。「出逢ったご縁を大切にしていきたい」という言葉が添えてあって「名刺交換のときの話が興味深かったので一度訪問してお話をお聞きしたい」というアポの電話。世間話をしている風を装って「勉強のために西端さんの契約されている○○について拝見したい」となる。
「感謝のことば」とか「謝罪のことば」なんていうのは、礼儀としては、無いよりはあったほうが良いのでしょう、たぶん。
でも、こういうことばって、「やらされている感」とか「テクニックとしてやっている雰囲気」が伝わってくると、効果半減というか、かえって、「なんだか嫌な感じ」がしてくるんですよ。
だって、こういう儀礼的なことばって、実際に書いている店員さんたちは、僕の顔なんて覚えてはいないはず。
この店の偉い人たちが、マニュアル通りに対応しているだけです。
2人が全く同じ内容を書いたわけではないのに、謝罪文の内容は同じなのだから。
伝わってくるのは、相手の気持ちじゃなくて、「こういうふうにしたら、好感を持たれるはずだ」という身勝手で形式的な謝罪の押しつけでしかない。
手書きだったら、誠意が伝わるだろ?
そういう下心ありきの手書きなんて、要らないって。
経営者は「企業で一番お金がかかるのは人件費」だと言う。1000円の食べ物があって、そのうち、人件費が占める割合は如何ほどか。
対価にはモノの値段だけではなく、モノを提供してくれるヒトの行動や言動のひとつひとつも含まれている。僕たちはロボットにお金を払うのではなくヒトにお金を払いたい。マニュアルはロボットを作って個性を殺す。効率、合理性、画一的。それでいいときもあるのかもしれない、ただ、そればかりでも面白くないと思う僕のような人間には残念だなと感じてしまうことも多い。
モノやサービスは値段に対してある一定以上のクオリティであることは当たり前のこと。「やらされているロボット」にではなく「働いているヒト」にお金を払っているのだという意識を持ち、持たれようとする、そのお互いの心掛けがお金を回していくことになるのかもしれない。
景気や経済は心理学。ひとりひとりの意識や行動、言動の一つが集団心理に繋がって、加速と減速のベクトルを変える。商売をする人たちは、風が冷たくならないように知恵を出す。増税によって節約を余儀なくされる人たちは、限りある資源をどこに向けるか慎重に吟味する。それぞれの選択が今までと異なる結果になってしまうことはあっても、どうかお金の流れは滞るなく回り続けていてほしいと願う。
まわれ、まわせ。とめるな、まわせ。それぞれの価値観。こんなときだから「つかう」「つかう先を考える」は大切なことで、罪ではないよね。