「あの人大嫌いだ、性格悪いし、人の悪口ばっかり言うし」
なんて、指をさして腹を立てていたこともあった。そんな相手のことだから「どうせ誰からも見放されて、失敗するに違いない」と考えたことさえある。そうして疎遠になってしばらく、その人が、僕が嫌いだと思って指をさした他の誰かと仲良くしているのを見かけることが多いことに気が付いた。僕はAさんが嫌い、そしてBさんも嫌い。ところがAさんとBさんは仲が良いという関係。何度かそういう事態に遭遇するようになって、人はそれぞれで、誰が正しいとか間違えているという考え方自体が傲りだったんだなと思うようになった。
すべてが同じである生き物は存在しないし、それぞれの差異に違和感や共感を覚えていくことが相性の良し悪しと呼ばれるものになっていく。自分たちには表になったものが、誰かにとっては裏になってしまう可能性もある。万事は表裏一体。僕はそんな風に考えているし、それも人それぞれなんだろうと許容することにしている。違うから面白いし、違うから惹かれる。違うものに関わっていくことが、自我を確立していくことにもなる。他との関わり合いのなかで、僕は僕の在り方を教えられる。相手の存在と時間があって自分を見つめ直せるのだとすれば、世の関わりの殆どに有り難い気持ちを抱くことができる。
引用元:[大爆笑動画]犬と猫の動画に学ぶ教育論 ~金子みすずさんに学ぶ「みんなちがって、みんないい」 | 川柳をこよなく愛する明石のタコ
万物は表裏一体。明日の晴れを祈る人もいれば、雨を願う人だっている。どっちが正しいなんてことは、裁判官でない限り、裁判官であったとしても、本当のところは決められない。ただ、その時々、同じ考え方だから居心地が良いなと感じるゾーンもあれば、そうじゃないゾーンもあるというだけの話だと思う。
他に萎縮せず、いつからか、書きたいように書くようになった。離れていく人もいるのだと思う。ただ、そんな人は静かに背を向けてくれる。気付かない間に、書くことを継続して、僕にはこんなにたくさんの助けてくれる人が現れたのだと感じることが増えてきた。少しずつ、だけど、確実に。
継続に共感してくれた人と、そんなすべての人たちが与えてくれた時間に心から感謝をしている。そして傲りを持つことのないよう、僕はお題目のように、いつもと同じ「人はそれぞれ」を唱えていく。感謝で終わる一日は、誰かの与えてくれたもの。満たされているなぁと思う。