最終的には利益のために仕事をするのだけれど、仕事の姿勢としては利益のためであってはならない。利益は尻尾についてくるというのがうちの会社の考え方で、役に立ちたいという橋を繋いでいけば共存共栄の関係になっていくというイメージを描いている。
専門家に聞くべきことでもどの専門家に聞いて良いかわからない。だから「よく知ってそう」な人は重宝される、一方、便利に使われてしまうこともある。そこに飛躍と疲弊への分岐点があるのかもしれないな。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2014, 9月 11
「何かをしてあげたのだから、返してもらわないと」という下心になっても良くない。それでも「恩義に報いる」「義理を果たす」という関係が成立していると思えるときは、商売人冥利に尽きるというものだ。その瞬間のために人との関係を繋いでいるといっても過言ではない。
僕がビジネスという言葉ではなく商売という言葉を用いるのは、ビジネスの本流には「対価」という考え方があって、商売の根底には「恩義」が流れているように思えるからだ。
組織として仕事をしているのだから、自分が仕事を終えても仲間を手伝おうという家族的な雰囲気がかつては存在した。いまは作業時間の対価の範囲でのみ仕事をすれば良いという主張風潮が強くなってきていて、僕のように「義理」という言葉を口にする人間には肩身が狭くなってきている。それでも、自分は商売人の父を見て育ってきた。合理的な考え方も必要だとは思うものの、対人関係においてはいつも、義理を大切にしていたいと思う。
「仕事の価値も分からずに無料でやらせるんじゃないよ」と憤っている人を見ると、それは価値をちゃんと伝えられていないあなたにも原因があるのではないかと思う。一方で「あの人に頼んだら簡単にやってくれるから」と言っている人を見ても、この人はあの人の簡単に出来るようになったまでの時間的な価値を想像しようとしないんだろうか、という気持ちになってしまう。
義理を重んじるために意識するべきは、相手の時間を借りているという考え方だろう。
たとえばパソコンのことを教えてもらったとする。詳しい人が5分で解決できることは、5分で解決できるようになるまでにその何百倍もの知識と経験の習得の時間を要してきたということ。いま、目の前にいる人は、時間という透明な高さの椅子に座っていることを思い浮かべる。それが相手に対する敬意であって、僕たちはその高さに価値を認めなければならない。「得意なんでしょう? ちょっとだけ教えてくれないかな」の「ちょっと」は、とても果てしない。
色々な人から必要とされ自己を確立している方は、この「ちょっと」を惜しまない。けれど、価値を認めてくれる人と価値を認めてくれない(価値に気付かない)人の間に翻弄されながら時折、苦悩の顔を浮かべる人たちを眺めていると、僕はここまで、人間を大きく持つことができるだろうかと思ってしまう。これが器量、器という奴なのだとしたら、僕の底は浅くて狭い。