新しい朝が来たけど僕たちは昨日と同じ体操をする
木下龍也(twitter)
つむじ風、ここにあります
新しい朝という言葉には、普通、エネルギーに満ちた気配が伴う。「だからこれを始めよう」「生まれ変わったつもりで取り組んでいこう」。
ところが、昨日と同じ体操を繰り返すという響きによって、新しい朝は途端に気怠くて空しい灰色に染められてしまう。日常が日常として変化を見せない様式を「体操」という一言に集約して、生きることはスタンプを押すような毎日であると嘆く。たとえ太陽が眩しくても。
大切な何か(――ヒトやモノという、それぞれに価値のあるもの)を失って、大きな穴が空く、千切れる。焦点の定まらない眩暈に茫然と過ごしても、ニュースキャスターはいつものように日常を伝えて、明日も暑くなりそうだと言って番組を終える。ひとりが直面した大きな喪失は、日常という大きな流れの前に細く小さく、凹みのない仮面を用意して立ち上がっていくことを余儀なくされる。関わり合う生き方のなかで、それは必要な振る舞い方の一つ。
ただ、ほんの。
いつもとは違う、肩の回し方や背伸びの運動に、気付いてくれる人がいないわけでもない。優しさを引き出す気怠さは、きっと甘え。それでも、そんな計算や期待が微かにあって、かろうじて体操は繰り返していけるのではないだろうか。