手取り足取り教える人もいるし、目で盗めという人もいる。どんな世界にも上司や先輩はいて、その背中の見せ方はそれぞれで実に興味深い。動物の世界にも「教える」という概念は存在していて、僕はこの動画を繰り返し観ては何度も腹を抱えて笑ってしまった。
http://youtu.be/i0eppgL7OwE
犬と猫、それぞれの子どもに階段の降り方を教えている動画。犬が「こうやるんだよ」とお手本を見せているのに対して猫の取った行動がなんとも。
みんなちがって、みんないい ~金子みすずさんの詩から学ぶこと
金子みすずさんのみんなちがって、みんないいのフレーズはすっかり有名になった。金子みすずさんの詩の特徴は、「暗」や「寂」のイメージがあるものを対象化して、自らの心に優しく働きかける存在に昇華させてしまうこと。有形なれど無なるものに意識を与えるその素朴な表現技法に魅了されて、僕は金子みすずさんの詩集をすべて買い込んでしまったほどだ。
没後80年金子みすゞ〜みんなちがって、みんないい~ |
人間でもそう、動物の世界でもそう。
すべてが同じである生き物は存在しないし、それぞれの差異に違和感や共感を覚えていくことが相性の良し悪しと呼ばれるものになっていく。自分たちには表になったものが、誰かにとっては裏になってしまう可能性もある。万事は表裏一体。僕はそんな風に考えているし、それも人それぞれなんだろうと許容することにしている。違うから面白いし、違うから惹かれる。違うものに関わっていくことが、自我を確立していくことにもなる。他との関わり合いのなかで、僕は僕の在り方を教えられる。相手の存在と時間があって自分を見つめ直せるのだとすれば、世の関わりの殆どに有り難い気持ちを抱くことができる。
自分の伝えられること、教えられることもきっとそうなんだろう。正解ではなく、方法や思考の一つとして、背中を見せたり声に出してみたり、時には沈黙を貫いてみたりもする。それを模範とするのも反面教師とするのもメンバーの自由で、ひとを変えられると思い込んでしまうことがあるとすれば、それは僕の傲りであるに違いない。
何度も何度も笑った動画。犬だから全てがこうするわけではないし、猫のすべてがこんなことをするわけでもない。きっとそれだって、みんな、ちがう。
僕はまだまだ青くて、隣の芝生の色を気にしては焦燥を覚えてしまうことがある。かくありたいと思っても、実践できていないことを痛感している。人はそれぞれ、僕には僕の歩幅がある。動物たちのそれぞれに、こんなに微笑ましい気持ちになることができたのだから、自分の歩みにもちゃんと認めてくれる人があるのだと信じて、これまで通り、これまで以上を「人それぞれ」として受けいれていきたいな、と思った。