「いい坊さんで、丁寧なお経で、有難い有難い・・・」
親戚は皆、そんな風に感じ入っていた。
僕は、白々とした気持ちでそんな光景を見渡す。 確かに、自分の経験と照らし合わせても
丁寧なお寺さんだなぁとは思う。それは、おばあちゃんが亡くなった時にも同じように感じた。
でも、それってやっぱり、『してあげた』という家族の自己満足でしかなく、亡くなってしまった
本人にとっては、はたしてどんな風にその様子は映るんだろうか。
案外むしろ、適当な坊主のデタラメなお経で
「なんだいあの坊主は! あんなに優しいおじいさんの葬式なのに!!」
なんてことになった方が、故人が偲ばれて良かったりする、、、てなことはないだろうか。
宗教や信仰は人それぞれ。
介護し続けてきた家族だって疲れているのだし、故人を見送る葬式の場で、少しでも癒しを
感じることが出来るならば、それはそれで良いだろう。
ただ、『感謝』の気持ちは、何よりも一番、故人であるおじいちゃん自身に向けてほしいように
思う。どんな立派な坊主の、どんな丁寧なお経だって、それは故人に向けられてのもの。
お経がありがたい、のではなく、生んでくれたこと、育ててくれたこと、存在してくれたこと、全ての
感謝の気持ちを向けるのが、葬式という場で必要なものなのではないだろうか。
「お布施に、50万ものお金を払う必要があるわけ?」
そういう自分に、親戚は「気持ちだから」と答を返す。
でも、気持ちだから、と答えた親戚自身は、やれどこの家では何万だったからうちはこれぐらいで
ないといけない、と、世間体を気にしてその金額に決めたことを僕は知っている。
気持ちって、世間体のことなのか。
いったいどこに、ありがとうの気持ちが向けられた葬式だったのだろう。
おじいちゃんには、ゆっくりと休んでほしいと思う。
安らかに。 ありがとう、おじいちゃん。