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2025年4月21日、コロナ入院から4年。明石市立市民病院にて、今思うこと。

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2025年4月21日、コロナ入院から4年が経った。今日は偶然、眼科への定期通院だったので、僕はこの文章を会計待ちのロビーで書いている。

1階奥の整形外科の前を通りかかる。受付の人にご挨拶をして喋っていると、頚椎ヘルニアのリハビリでお世話になった理学療法士のSくんが院内で講演をするということを教えてくれた。

「おおお、彼も立派になりましたね。いちびるな、と伝えておいてください」

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3階に上がって眼科へ。

受付のFさんとお喋りをする。Fさんは僕の自宅前にある小学校にママさんバレーで通っている。「新しい制服になって、ますますしゅっとされた印象がありますよ」と話すと「でもこの制服、アレなんです」と眉をひそめていた。「わかります、アレですね」と僕も相槌を打った。確かにアレだった。制服は会社の上の人が決めたものらしい。

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検査。

技師のNさんが僕のカバンを持って、重たい重たいと言う。同じ技師のHさんはヲタク仲間でもあるので、それならどちらのカバンが重たいか比べてみようという話になった。眼科の検査室で、体重計を持ってきて勝負をする。

Nさんのカバンは7.5kg、僕のカバンは8.5kg。僕の勝ちだ。通勤のときの荷物を極力減らしたいというNさんは、僕とHさんに尋ねる。

「肩が凝らないんですか?」
「いざというときに戦える装備を持ち歩いている、それに安心するんです」
「戦士みたいですね」

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診断。

医師のO先生は兵庫県の北部のご出身。下のお名前だけを見ると春のお生まれのような印象があるが、実際は冬の生まれらしい。「あぁ、だから肌がお綺麗なんですね」とよく意味のわからないフォローをした記憶がある。

先月した注射は効いているらしく、左目の腫れは引き始めていた。視力も回復。右目はまったく問題なく、最後に注射をしてから一年以上が経った。

なお、ばね指のその後も安定していて、これだけの文章をストレスなく入力できるのが楽しくて仕方がない。

さて、4年。もう、4年。

僕はこの病院には頚椎ヘルニアになったときからお世話になっているので、こんな風にお互いのことを伝え合って(ふざけあって)いる人たちがたくさんいる。

あの日僕は、高熱が止まらず、息苦しさに絶望を感じていた。保健師の方はご自身のケータイ番号を伝えてくれていたので、我慢ができず相談すると、急遽、市民病院の発熱外来を受診できることになったのだった。

病状は(自分が思っていたよりも)重く、緊急入院ということになった。「その前に新しいパンツを買ってきていいですか?」「だめです」という会話でかろうじてアイデンティティを保ったものの、実際はもう、歩けるほどの体力も気力もなく、僕は車椅子に乗せられて6階の隔離病棟へと運ばれていったのだった。

車椅子を押してくれた看護師が偶然、幼馴染のEちゃんだった。「やっちゃんやんか!」と言われてビックリしたのを覚えている。彼女は僕を吹奏楽部に誘ってくれた恩人でもある。なんて心強いのだろう。当時、神経痛にも襲われて悲鳴をあげる日々だったので僕は彼女に言ったのだった。

「集団部屋だと、みなさんに迷惑をかけちゃうかも」

入院して30分もしないうちに、僕は個室を用意してもらうことになった。なんと有難いことだろう。ただ、これは後になって知ることだが、実際は僕の病状は酷かったので、何かあったときにすぐに対応しやすいようナースステーションの前に連れていかれたのである。病床が足らず、入院できない人たちもたくさんいる中で、僕は緊急入院ができた。ありがたいことではあるが、言い換えれば僕はあの日、市内で一番死に近い存在だったのかもしれないということだ。

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それでも最初は酸素マスクはいらなかった。「入院しちゃいましたー」とSNSに書くと、たくさんの人からお見舞いのメッセージをいただいた。面会はできなかったものの、病院の駐車場から励ましのお見舞いをしてくださった方々もいる。本などを差し入れしてくださった方もいた。とてもとてもとてもありがたかった、温かかった。

僕の身体にはふたつの肺炎が生じていた。ひとつはコロナの、もうひとつは原因不明の。まだコロナに対する知見の少ない頃である。先生は全国の呼吸器の医師たちで組織しているネットワークに僕のCT検査の写真を添えて調べてくれたが、結局最後まで原因はわからないままだった。

「念のため、エイズ検査もしておこう」
「先生のほうが、遊んでて、よっぽどエイズになりそうやんか」
「なんでやねん」

まだ冗談を言う余裕はあったんだ。

でも、体調は次第に悪くなっていった。程なくして酸素吸入が必要になった。食欲も落ちていく。毎日、誰かが駐車場に来て手を振って励ましてくれた。立ち上がって手を振ったりカーテンを揺らしたりする。ところが、その程度のことですら僕の呼吸は乱れ、モニターしている看護師の人たちが飛んでくる始末だった。

「何かありましたか?」
「いや、ファンの方に手を振りかえしてたんですよ」
「西端さんはアイドルじゃないんですから」

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入院中は入浴ができなかった。ただ、あまりに僕が「シャワーを浴びたい浴びたい」と頼んだものだから、実はこっそり、前述のEちゃんが僕を秘密のシャワー室に車椅子で連れていってくれたりもした。

窓も開けられない病室だったので、車椅子に乗って移動するとほんの少しだけ、風を感じられる。それが嬉しくて仕方なかった。病室の窓からは明石公園の青々とした木々が風に揺れているのが見えるのに、僕はそれを肌で感じられなかったのだ。風のある世界、生の感じられる地上がどれだけ恋しかったことか。洗髪だけだったが、頭を洗えてさっぱりした。人間としての尊厳が保たれた気持ちになった。

毎日、汚れた身体を看護師さんたちが拭いてくれる。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。続く高熱。声も掠れていく。それでも、一生懸命コミュニケーションを取ろうとした。看護師さんたちと喋った内容は、全部メモに残した。こんなところでも営業モードである。性分は変わらない。

SNSでも励ましの声をたくさんいただいた。入院をしてからずっと発信をしていたので、それなりの反響があり、病気になったことがきっかけで今でも交流の続いている方々がたくさんいる。信州の山々の写真を送ってくれたTさん。僕はあの写真たちに「生」を与えられましたとも。

40度近い高熱はずっと続いた。氷枕をいくつも抱えて、氷の塊のようにして全身を冷やした。「氷枕にも肌にあう奴があって、自分はあれがいいんだよなあ」なんて冗談をかろうじて言いつつ、僕は病院中の氷を溶かしてしまうくらい、高熱と戦っていた。

この頃、おかしな現象もたくさんあった。死神のような黒く赤く揺れる影。僕の話をずっと聞いてくるスーツ姿の男性。きゅっきゅっとした音を立てて歩く小さな女の子の気配。いよいよ死ぬのかと思った。SNSでそれを書くと、同じコロナで戦う人たちを弱らせてしまう気がした。だから「もうダメかもしれん、ごめん」と母親にだけメッセージを送ったのもこの頃。「お願いだからそんなことを言わないで、お願い、生きて」。母は泣いていたのかもしれない。

吸入される酸素の量が増えていき、酸素マスクに切り替えることになった。それでも追いつかないらしい。酸素マスクに切り替えて1時間もしないうちに、ネーザルハイフローという器械が運び込まれてきた。いつも冗談を言う看護師さんたちの目が笑っていなかった。あぁぁ、メメさんのところのアイスクリームの無料券、使わないまま死んじゃうのかなーと思った。僕は死の直前まで、ポイ活馬鹿だったのだ。

ところが、ネーザルハイフローで酸素が送りこまれてくると、僕の身体は一瞬で気力を取り戻した。湿り気を帯びた酸素たちがまず喉を癒してくれたので、発声がしやすくなった。「声がでるぅぅぅ」と、叫ぶように歓喜した。ポイ活馬鹿でコミュニケーション馬鹿の自分が声を失うのは、それほどまでに気力を持っていかれることだったのだなぁ。

ここから回復は早かった。常にごおおおおおおという音を当てて酸素を送り込んでくれるネーザルハイフロー。どんどん元気になっていく。喉の痛みも消えたおかげで、食事も完食できるようになった。「全部食べたー」とSNSに書くと、みんな、とても喜んでくれた。自分が生きている、ただそれだけのことが人の心に働きかける何かになるのだ。

看護師さんたちは、みな、全力で僕に対応してくれた。できる範囲ですべてのわがままに応じてくれた。看護師たちの仕事は、治そうとすることだけではなく、治ろうとする気持ちを支えるものであることも知った。ひとりで何人の患者さんを担当していたのだろう。でも、喋りたがる僕の話をずっと聞いてくれたことで、自分という人間の個性と尊厳は、「患者」という窮屈な言葉に縛られることはなかったのだ。

やがて転院の時が近づく。

「あっちの病院では、たぶんお風呂に入れないと思うので」と、また、僕の「シャワーを浴びたい」という気持ちを尊重する作戦を考えてくれたのだ。なんとやさしいのだろう。

そうして僕は、酸素ボンベを抱えたままシャワーを浴びる作戦を決行することになった。ただし、与えられた時間は5分だけ。風呂の外で看護師が待機する。時間を守らなければ奪還作戦を強行する。それでもいい?と聞かれた。「嬉しい、ありがとう」と答える。もちろん、時間を守らなかった僕のシャワータイムは途中で打ち切られ、看護師さんたちが飛び込んできたのは言うまでもない。やだーーー裸見られちゃったー。アイドルなのにー。

転院のために迎えの車が来るという。荷物をまとめなければならない。でも考えてみてほしい。入院したときより、差し入れや着替えなどで荷物は増えているのだ。これを上手にカバンにしまう技術を僕は持たない。幼馴染看護師のEちゃんは、こっそり僕のシャツやパンツも洗濯してくれていたものの、それでもいつのまにか、下着の差し入れが増えていたのだ。みんな、僕がどれだけうんこを漏らす星人だと思ったのか。

荷物の山を見る。どうしようもならない。困った。車が来る。仕方なく、車椅子に乗り、カバンに入りきらなかった物たちを膝の上に抱えた。荷物ごと運んでもらおうと思ったのである。看護師さんがやっぱりね、やれやれ、と笑って僕の荷物を整理し始めてくれた。あぁぁ、最後の最後まで、僕の個性を尊重してくれるだなんて。そんな。

会計待ちの間に書いているつもりが、思ったより長文になってしまった。僕の会計番号は242番なのに、すでに285番の人までが呼ばれたらしい。そろそろ診察代泥棒だと言われかねない。払ってこないと。

なにが書きたかったのか、よく分からないけど。

4年経って、偶然、同じ場所にいて。

あの日あれだけ憧れた風を、僕は公園の坂を自転車でくだりながら受けてきましたよ。生きていますよ。みんなに与えてもらった命ですよ、だから絶対に無駄にしませんよ。それを伝えたかったんだ、たぶん。

死にたいと思うくらい辛いことはたくさんある。でも、あの日、肺炎の底で沈んだ息苦しさ以上に死を感じさせるものは、もうないと思ってる。そしてこんな自分にも、生きるための力を与えてくれる人がたくさん存在する。

だから「死にたい」ではなく、与えてもらったこの命で「どうするか」を、まず考えられる、そんな人間でいたいと思うよ。

お世話になったひとりひとりに伝えて回ることはできないけれど、僕は一生、この日を忘れない。そして繰り返し伝え続ける。

「生きていてよかった、ありがとう」

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