司会といっても、流暢に話すようなそれではなく、僕の場合は盛り上げ役でやるようなものなのですが。
それでも、お引き受けした以上は色々考えます。
たとえば壇上で誰かをインタビューする可能性があるときは、その方のSNSを事前にチェックして、堅苦しくならないように「いじり」を考えておきます。
また、リハーサルのときはステージから一番遠く、死角になりやすい位置を確認しておきます。話すときは視線をできるだけ、そちらの方に向けるようにするのです。目が合うと、聞いている相手はうなずいてくれるんですよね。笑ってくれていることが確認できると、ほっとします。
お節介なのかもしれません。
でも、そんな風にして輪の中に導いてくれる人に何度も救われてきた僕なので、やっぱり同じようにしたいと思うのです。声を上げにくい人の声を想像して、こちらの方に気持ちを向けやすい工夫をする。必ずうまくいくわけでもなく、空振りしてしまうことも多いんですけども。
さて。
皆、スマホを持ち、平等に発信ができるようになったといわれます。
ただそれでも、声の大きい人とそうでない人との差はあるような気がします。
「ほら、〇〇ってひどい考え方の人がいますよね? 西端さんはどう思います?」
こんな風に問いかけられると、普通の人はなかなか「いえいえ、そんなひどいとは思わないですよ」と答えられないでしょう。せいぜい苦笑いで受け流す程度です。僕なんかはビビりですので、「えへへ、あはは、うほほ」と壊れた風を装って、そのまま月の沙漠へ出かけてしまうに違いないのです。余談ですが、千葉県には月の沙漠記念館があるそうですよ。
できるだけ、僕は、僕たちは。
誰かの気持ちを傷つけ、追い込むことのないよう、配慮に満ちた言葉を選っていかなくてはなりません。でも、わからないのです。知らない間に僕の声が大きくなっていて、気がつけば友人がラクダの背に乗っていたというのはよくあることなのです。失敗を何度も繰り返し、たぶんこれからも、同じ過ちは繰り返されていくのです。ラクダは何匹いても足りません。
世の中にはいろいろな人がいて、それぞれの正義があります。
だから僕たちは、想像をしなくてはいけないのですが、想像はときどき、暴走をしてしまいます。どうしたって止められるものでもありません。想像して、暴走して、失敗に気付いて、また、想像をする。永遠にそれの繰り返しなんでしょうね。「何をしなければいけない」でも「何をしてはいけない」でもなく、想像の一歩目が、かつての暴走に類似していないか考える。できるだけラクダの出番を減らすように努める。それだけ。
コロナ、コロナ、コロナ、コロナ。
そして言葉たちに棘が目立つようになってしまいました。
ただ、思いたいのです。
誰かの言葉が荒んだのではなく、自分の言葉がまず乱れたのではないかということを。
はじまりは自分にあることだけを決めておけば、すくなくとも、次に発する言葉を改めることはできる。そんな砂漠でなら、穏やかな風に吹かれて遊んでみるのも悪くはないのかもしれません。
声をあげられない人もいます。
声の大きい人もいます。
ラクダはすこし、寂しそうです。
繰り返したいですね、自分に向ける想像を。