圧死するのなら、本の山に埋もれていくパターンを選びます(ほかにどんなパターンがあるのかは知りませんが)。
本棚のある景色がとても好きです。その人の本棚を見せてもらえると、これまで、どんな人生を歩んできたのか、どんなものに影響を受けてきたのか、色々と想像をしてしまいます。無人島に10冊だけ本を持っていけるとしたら? そんな話をするのも楽しくて仕方ありません。自分のために本を選んでくださる人も大好きです。人のために本を選ぶのもたまりません。
ところで「断捨離」です。
本を贈りたいな、と思った相手が、せっせと断捨離に努めているのを聞くと、どうしても躊躇してしまう。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人・コトバノ (@bata) 2018年1月28日
いつか棚から溢れ出てしまう本をどうするのですか? と質問すると、処分をするという答えがかえってきます。当たり前なんですけどね。でも、本は、本としての一冊のかたちになるまで、手元に届くまで、書く人から贈る人までのすべての想いがこもっているものなので、やっぱり大切にとっておきたいなぁとも思うのです。そうしてほしいとも願うのです。
だから断捨離を公言している人には、どうしても本を贈ることを躊躇してしまいます。
最近、これは、本だけでも、そして「断捨離」という言葉だけでもないのかな、思い始めるようになりました。
「断捨離をしています」とか「食事制限をしています」という相手には、リミッターが働いてしまうんだな。公言するからこそ「モノが増えない」「無用な食事に誘われない」というメリットもあるんだろうけど、人と繋がるチャンスを求める場面では不利になってしまうこともある。ケースバイケースだなぁ。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人・コトバノ (@bata) 2018年1月28日
ただ、思うんだ。
自分で商売をしている人は「断捨離」は公言しちゃいけない。商売を営む人たちは、誰も、自分が世に送り出すものを「不要なもの」なんて考えていないからね。他を否定すれば、回り回って、自分に返ってくる。もちろん、黙って断捨離をすることは自由なのであって。— 西端康孝 / 川柳家・歌人・コトバノ (@bata) 2018年1月28日
消耗品を除いて「捨てられる」ためのものをつくっている人はいません。想いの熱量は違うかもしれませんが、それでも、ひとつひとつに魂が込められているのは間違いないでしょう。
だから、特に、私たち商売を営むものは、安易に「断捨離」という言葉を公言してはいけないのではないかと思います。それは誰かの魂を踏みにじっているのではないかと思うのです。ひとのつくるものを軽視する言葉を使ってしまうと、それは回り回って、自分の生み出す魂にも正当な価値を見出してもらえないことになるのではないでしょうか。
行動として断捨離をするのはいいと思うんですよ。でもね、それは黙ってやればいいんじゃないかな、と。捨てることを前提とした立場の人のところには、やっぱりどうしても、人も情報も物も集まってこないような気がします。考えすぎ、ですかね。