あの子は立っていた。
冬、ぽつん、見世物になって立っていた。ぽつん、潮風を浴びて立っていた。ぽつん、後付けのそれっぽい言い訳と電飾を着せられて立っていた。
祈るとか、鎮めるとかを、殺される木が担っている。
ぽつん、あの木はとても寒そうだった。#世界一のクリスマスツリー
— 西端康孝 / 川柳家・歌人・コトバノ (@bata) 2017年12月1日
ひとことだけ、木が言えるとしたらどんな言葉を選ぶのだろう。
寒い
悲しい
悔しい
帰りたい
生きたい
とか、そんな感じだろうか。
木に感情があるなんて、思っちゃうほうが馬鹿だろうか。
僕たちは木によって生かされているし、木を切ることを批判するつもりはない。ただ、木を切る理由について嘘を重ねて、それっぽい雰囲気を醸し出そうとしていることについては、どうしても「木の無念」を感じずにはいられないのだ。
誰かの名誉のために、たとえば僕が、知らない土地に運ばれて、安っぽい光に包まれて、足を縛られていたとする。そんな僕に、いろんな人がカメラを向けて、僕がきっと喜んでいるのだと言われたとしたら。
そんな僕の命は、失われた魂を「鎮める」ことになるんだろうか。