音符にすれば表現出来るような物事の流れのイメージがあって、その抽象的な危うい感覚を共感してもらえると、ますます言語性は失われていってしまう。だから欲しいと思うのだし、だからこれではいけないのだとも思う。時々感じる、ここは分岐なのだという想い。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2016, 2月 16
説明して伝わるのではなく、表現して感じてもらえるような余韻のあるところを目指す。詩人の顔で臨むときはいつもそうありたいと願ってる。商業ライターとして文章を書く必要もあって、どの立場にいるかによって、この考え方は大きく変わる。スイッチを入れ直すのは難しくても、最近はそのあたりの行き来を楽しむ余裕は持てるようになってきた。書くこと、表現することはやっぱり天職だと思ってる。
耳に鳴って眠りが遠くなる。同じ鳴るなら和音でいいのに、今日はずっと金属が飛んでる。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2016, 2月 16
耳鳴りに痛みが伴い始めた。休みたいのではなく、休んでもいいような環境や仕組み作りを急ぎたいと思う。気が張っているうちはいつも大丈夫。もう少しだけ走ってみる。あれこれは、その先ですこし。
去年大賞をいただくことができたありがとう百人一首大賞・母の日(短歌)の公募が今年も行われている。
結果発表! 小倉山荘ありがとう百人一首大賞母の日、大賞受賞 | 川柳をこよなく愛する明石のタコ誰かを想って歌を詠む。「誰か」が明瞭になってしまうのは、含みを持たせる詩歌の世界ではかえって制約になってしまうこともあるのだけれど、時々はこういう歌もいいのではないかと思っている。素直には伝えることのできない想いを去年は歌にして表現した。