学校に行く前の番組はもっと、子ども向けのものが多かったような気がする。いつから、人の批判や噂話の類の内容で埋め尽くされるようになってしまったのだろう。ガチャピンやムックのような存在は、今の時代の子どもたちにもあるのだろうか。
「万人に好かれるものはない」というのを超越した「何をやっても叩く人はいる」ということが見えやすくなった今は、目標の実現のために努力することにも強い精神力が求められちゃうんだろうな。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2016, 2月 13
登山ならば、自分の来た道を振り返ってその道のりに感動するのだろう。自分を褒めたくなるだろう。
普通に生きていると、その道程がとても見えにくいものとなってしまう。だから僕たちはつい、自分より劣る何かを見つけて地位の安定を図ろうとしてしまう。自分よりも下の人。劣る人。頑張っていない人。持っていない人。それと比べれば、今の僕はマシ…。
有名人だから政治家だから叩いて良いというものでもないと思ってる。批判には批判の作法があると思うし、どんな批判をするのであっても、相手を呼び捨てにしたり相手の家族の尊厳をも傷つけるようなことがあってはならない。ましてや、生まれてきた子どもや生まれてくる子どもにはなんの罪もない。いつか出生の頃の事実を自分で知るようになったとき、好奇の目に晒された事実をどんな風に感じるのだろう。いまのこんな時代、技術は進化して、ナイフになった言葉は永遠に残って誰かを苦しめ続ける。
[短歌]それだけのことをしたのだ死になさいさあ死になさい今すぐに | 短歌と川柳とマカロニと「あっち」と「こっち」は紙一重なんじゃないだろうか。叩く人は、明日にはもう叩かれる側になっているかもしれず、その恐怖から逃れるために燃料を見つけては投下しているような気がしてならない。
愚痴や不満や悪口、そして否定語のない言葉を使う人と話をしているとホッとする。そして、心から、そんな風な人間になりたいと憧れる。僕はいつだって、誰かの咎を見つけては、自分の安定のことばかりを考えようとしてしまう。遠い遠い憧れではあるが、自分の言葉から、少しずつでも、鋭利なものをそぎ落していく努力をしたいと思う。