日曜日よりも、土曜日の放課後の方が待ち遠しかった
―― この感覚は、同世代の人たちには共感していただけるのだけれど、完全週休二日制の時代を生きた僕より下の世代の人たちにはなかなか理解してもらうことができない。いくつかの表現で置き換えてみても、重なるような手ごたえを得られた試しがない。僕たちは不幸せなようでいて、幸せな時代を生きていたということなのだろう。不完全な空気のなかには、何かを足して楽しくしようとする工夫があった。
季節ごとの約束だとか、一週間先の想像だとか。今だって、生きていて楽しいと思うのは「ほんの」未来にご褒美が待っているときだ。ご褒美に向かっていくときの自分は純白を歩いている。一点の曇りでもあれば心は容易に壊れてしまう、だからノイズは聞こえないようにして、未来に辿り着いていく。そして今度は、幸せを過ごしながら花火の終わるような寂しさを感じてしまい、次の想像を求めようとする。今と未来を繋ぎながら、今日を明日を生きていく。僕はそうだけれど、誰だってそんな風なのではないだろうか。
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未知に満ちている未来に不安が勝つとき、何をするにも臆病になってしまうことがある。息をするのも窮屈な、狭くて冷たい場所にいるような錯覚をすることもある。それでも、ご褒美のような想像がふくらめば、今をなんとか、歯を食いしばって生きていくことができる。仕事をするときはもちろん、生きていくのにも「想像」のチカラは大きく作用して、僕の足元をかためてくれる。
土曜日の放課後、の、ような、ほんの想像がそこに在るということ。足並みがそろえば、そこは、とても温かい場所に違いない。無性に「ありがとう」と伝えたくなる。