車検を通すか、買い替えるか、ずっと考えていた。
7年お付き合いしてきたディーラーさんに断りの電話。サービスの方たちは本当に素敵で、車のことを何もわからない自分を安心させてくれた。ただただ、営業の方との相性が合わなくて残念だった。「買わされる」のではなく「選びたかった」。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2015, 10月 25
いまお付き合いのあるディーラーの営業の方の対応は残念だった。サービスの方々は本当に良くしてくれたので、僕はそれだけが理由で、次もこのディーラーにお願いしたいと思っていた。僕は車のことはさっぱりわからない。さっぱりわからないからこそ、買うという「点」ではなく、後々もこの人たちのお世話になるのだという「線」の評価で車とお店を選びたいと考えている。
僕は僕自身が営業の人間であることを、相手に伝えておく。ひとで選ぶのだということも伝えておく。そのディーラーは、最後まで、正確な数字のはいった見積書を僕には渡してくれなかった。多分、きっと、数字のはいった見積書を他所に持っていって駆け引きをされることを嫌がったのだろう。気持ちはわかる。でも、僕はガッカリした。「僕はあなたを信用していますよ」というメッセージは、どうやら表面的なものとして受け止められてしまったようだ。これは事例のひとつ。ほかにもいくつかガッカリすることがあって、僕はこのお店に足を運ぶことが次第に億劫になっていった。
自分たちが何を、いつ、売りたいのか。それは売る側の論理であって、お客さんには関係ない。お客さんには果たしたい目的がある。その目的をちゃんと「聞く」ことができているだろうか。自分たちばかりが「話す」ことをして、「押し付けて」いないだろうか。今回の一連のことで、自分自身が商売をしていくうえの多くの気付きがあった。
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会社の車でお世話になっているメーカーがあって、担当のOさんは僕に言う。「西端さんの考え方だと、こういう車が向いてますよね。そうそう、うちの娘と先日こんなことを話をしてたんですよ… etc」。僕のことをよく知ろうとしてくれて、自分のことをちゃんと開示しようとする。僕はOさんの娘さんの担任のことまでよく知っている。
僕は、だから、Oさんにお世話になることを決めた。商売ってのはつまり、そういうことなんだろうと思う。僕の生き方、僕の考え方、商人の矜持。