考えすぎて動けなくなるというのはありがちで、60点で走り出して、あとは軌道修正をしていこうという話を社内ではよくする。
0から60になるまでの時間と、60から100になるまでの時間は、数字の距離だけでいえば後者の方が短いはずなのに、斜面の角度が違う。登りきったときには、もう、求められていたものはずっと先に行っていて、99と100の間の永遠を彷徨い続けてしまうことになる。新雪に誰かの足跡を見つけたような悔しくてもどかしい気持ち。
だから、日付を決めてしまう。だから、決めた日付で、放つ。
放ってから、不完全を埋めていく。そういうスピード感がなければ、お金を捨て続けているのと同じなのかな、と思う。
ずっと、ちょっと、気になっていることがあって、小さなシミの消えないままのような違和感を、同じ業界のビッグネームはどうしているのだろうと思って調べてみると、なんにも気にはしていなかった。カタチではなく、芯。芯から伝わる共鳴、余韻。ああ、そうなんだ、そうなんだ。そうだったんだ。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2015, 1月 25
と、言いつつ、ずっと気になっていて動けなかったことのヒントを求めてみた。
ぽんっと、頭が軽くなって「動こう」と思った。動けないのではなく、動かない理由を一生懸命探していたことに気付かされた。チャーハンを食べてもらうためのスプーンについた小さな傷を気にして、美味しく食べてもらうことを忘れてしまっては本末転倒。大切なことは美味しく食べてもらうことで、スプーンはあとから買い足していけば良い。
原点って何なのか、理念って何なのか。
その軸があれば、立ち返ってまた、動き出せる。
そうだよなー、そうなんだよねー、そうだったんだー、そうなんだよー、と、何度も繰り返しながら僕は、お気に入りのラーメン屋さん、そのチャーハンのことを思いだしていた。原点はいつもチャーハン。違うんだけど、そんな感じ。