ひとりの命が失われて、手のひらの翻る音が聞こえた。
「袋叩きにした結果であると言うあなたは、まだ自死を選んでいない他の誰かを袋叩きにしているうちの一人なのですよ」と言いたくなる。
— 西端康孝 / 川柳家・歌人 (@bata) 2014, 8月 5
言論の自由はひとを裁判官の顔にして、逮捕の事実だけで有罪にしてしまうこともあれば、棚の上に僕たちを置いて正論の風を吹かせることもある。
度が過ぎてナイフになった言葉は、束になって心を殺していく。性質の悪いことにこのナイフは、投げた瞬間はそれだとは気付かず、また、どうせ届くことのない紙飛行機程度のものだと誤認されている。いつもそう、誰かが傷付いて、倒れて、刃だったのだと知る。けっして自分は投げていないのだという顔をして。
批判ばかりしている人が、批判で殺した人たちを批判しているのを見かけて呆れた。人それぞれの自由ではあるのだろうけれど、傷付きやすい人の心を想像することが出来ないのであれば、傷を付けやすい自分の言動であることを自覚しようと思った。理科の世界の難しい話はわからなくても、一筋の言葉の先にひとの命があるのだということは、僕にだってわかる。
醜いね、酷いね、残念だね、悲しいね。
僕は僕たちは誰かの善悪を判断できるほど偉くはなくて、過ちの数だけチャンスを与えられて生きてきた。せめてそんな風に自分の心と決着をつけなければ、憤りの体温のままに朝を迎えてしまいそうで書く。