何か月もずっと苦悩の海の底に沈んでいたことに、とある言葉の添えられたご連絡をいただいて、心は一気に軽くなった。
ただ、思う。この嬉しさは誰かの悲しみの代償に存在するものなのではないか。オリンピックでメダルをとって喜ぶ人がいる横には、メダルに届かなくて涙を流す人がいる。雪が降って走り回る僕のことを、恨めしそうに見つめる人だっている。感情の総量はいつも一定で、誰かがプラスになった分だけ、マイナスを背負いこむ人も現れる。万事塞翁が馬という言葉にもある通り、自分ひとりの人生の時間軸を追ってみても、プラスとマイナスの出来事は帳尻合わせにやってくる。今年になってからいいことが続いているので、タイミングとしては戒める時期が来ているのだろう。
「総量」というのは感覚的なもので、僕はこれをよく、ベンチに例えて表現する。座ることのできる人の数は一定で、誰かが席を立てば、必ずまた誰かがやって来てくれる。ただし、やってくる誰かは透明で、意識していなければ着席には気付かない。透明な人が座っている場所に有色の誰かに座ってもらおうとしても、当然余裕はなく、ベンチはバランスを崩して崩壊してしまう。バランスを取りながら時を重ねれば、ベンチの長さは少しずつのびていく。つまり総量という人間の器は亀の歩みで大きくなっていく。そんなイメージ。
感情の抱き方も人間関係も、卑屈になって距離を取りすぎてはいけないのだろう。かといって、度の過ぎた程度になってしまえば、負を背負った人たちの心を抉ってしまう可能性もある。程良さ、適当。これが大切で、そして難しい。時々転んで傷を負ったときに、はじめて、あの時自分は度を越していたのだということに気が付いて経験値をもらうことができる。転ばないことも、また、あり得ない。
言葉にしてしまえば「とても嬉しいことがあった」。難しく考える必要はないのかもしれないけれど、飛び上がるほどの感情で頭をぶつけてしまうことのないよう、改めて、僕の思う「人の器」「感情の総量」について書いてみることにした。